蚕種冷蔵風穴の元祖       

蚕種冷蔵風穴について


前田家風穴(産業遺産) 


 古くから前田家には、屋敷の裏山に風穴(ふうけつ)とよばれる冷風が出ている場所がありました。江戸時代慶安期の記録にあるそうですが、松本藩主に漬物を献上した記録があるそうで主に野菜などの冷蔵に活用されていたようです。

 幕末の慶応から明治初期にかけての当主前田喜三郎氏により蚕種(蚕の卵)が冷蔵貯蔵後であっても適切な温度管理をすると優良な蚕に孵化が可能である事が発見されました。

 これは、養蚕業界をはじめ蚕種販売・生糸生産などの業界にとって大変な発見でした。蚕は本来,春蚕(はるご)とよばれる年に1回だけ春に孵化するものが通常であり、秋にも孵化する二過性を有するものもありましたが、あまり品質が良好でないため秋蚕(あきご)の飼育は法律で取り締まっているほどでした。それが優良な春蚕の蚕種を風穴で低温貯蔵する事により孵化時期を任意にずらすことができ、餌となる桑の葉が繁茂する夏以降あるいは農閑期となる秋にも優良な蚕を飼育をすることが可能となり、地域によっては年3〜5回繭の出荷ができるようになったのです。養蚕農家の収入も増えることから専業化も可能となり、養蚕が一大産業となったのです。

 明治維新後の日本は、政府が殖産興業、輸出による外貨獲得政策として養蚕を推奨していた時代であり、風穴種発見により蚕種取引が飛躍的に伸びるきっかけとなりました。それは国内で生糸生産を目指して富岡製糸場が建設されたのを母体として、各地で稼働を始めた製糸工場で必要とされる繭の需要に応じて養蚕業が増えたからでありました。やがて国中で世界に通用する優良な生糸が大量に生産されるようになり、日本の生糸が世界一の生産量を誇るまでに至りました。まさに日本が近代国家へと歩みだす礎となる輸出産業が興ったのでした。

 前田家は先駆的な存在として全国各地から蚕種の冷蔵依頼を受けて繁盛しました。そのおかげで山奥の村、稲核に馬車道が整備され、電信が通じ、前田家自宅敷地に郵便局が開設されるほどでした。今に残る土蔵造りの風穴前室部分は大正期に建てられたものだそうです。やがて風穴を利用した蚕種冷蔵業は、明治末期には全国で250ケ所あまりの風穴が登録されるほどに日本各地に普及しました。

  世界遺産となった群馬県富岡製糸場と絹産業遺産群を構成する国指定史跡の荒船・東谷風穴蚕種貯蔵所は、明治末に前田家風穴を参考に建設されたと言われています。また、埼玉県美里町にある秋蚕の碑(しゅうさんのひ)の初代富岡製糸場長の尾高惇忠さんが残された碑文には、秋蚕飼育は信州野麦街道沿い梓川渓谷稲核村、前田喜三郎に端を発すると記されているそうです。



 




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